Choose Life Project #2021企画「水は誰のものか」(YouTube)を視聴していてふと考えた。
私は自分の住んでいる地域が嫌いだ。嫌い、されど、好きでもある。
好きの理由は、かれこれ15年以上そこに住んでいるからだ。幼少期は親が転勤族だったこともあり各地域を転々としたが、小学校入学前~現在にかけてはずっとこの地域にいる。それでも自分の住む地域に愛着を持てるようになったのはここ最近のことだ。大学生になり時間ができると、地域のスポーツセンターに頻繁に通うようになった。そのほか地域を散歩する機会も増え、日常の買い物にもよく出かけるようになり、その間多種多様な動植物を目にするようになり、季節の移ろいを実感するようになった。私の住む地域は水が豊かな地域で、個人的に、「東洋のヴェネツィア」だと思っている。朝散歩に出かけると、夏はカルガモの親子に出会い、また、冬はオオバンの可愛らしい泳ぎやユリカモメとウミネコの縄張り争いを間近に見ることができる。たまにコサギやアオサギを目撃すると、その体躯の美しさにしばし見とれてしまう。
地域のスポーツセンターには実は小さい頃から通っているのだが、その甲斐あり、そこで働いている職員さんとは顔馴染みであり、行く度に何かしらの世間話をする。毎週通っていると、大体同じ面子の利用者たちに出会うのだが、皆それぞれ談笑しつつ一生懸命トレーニングに励んでいて、その様子を見ているとどことなくホームというか、コミュニティに属しているような安心感をおぼえる。朝行くと高齢者が多く、午後~夜にかけては仕事終わりの社会人が多くなる。スポーツセンターのそういう二面性が面白いのだが、個人的に朝のほうが好きだ…
私は自分の住んでいる場所周辺の地域は好きだ。しかし、少し離れた地域については年々嫌いになっている。
小学生の頃は全くそういうふうに感じなかったのだが、中学生になってからそういうふうに感じるようになった。中学校は自分の住む地域とは電車で約1時間離れた場所にあり、私は混雑が嫌いだったので早朝に家を出て、学校が終わったら早く帰宅する生活を送っていたが、それでも電車やホームでは、自分の暮らすコミュニティを軽く超えるほどの多くの人々と出会うことになった。そのせいだったのだろうか、私は日々ストレスを抱えていた。そして地元に着く頃には疲れ切っていた。しかし目にする光景は、遠くに聳える高層マンション群や交通量の多い騒がしい道路ばかりで、…さらに気分が落ち込んだ。ストレスを抱える自分には静けさ、どんな自分であっても受け入れてくれる、見守ってくれるような自然が必要だった。それを心の奥底で望んでいたのかもしれない。しかしそれが満たされない現状に対して不満が募り、ついには嫌いになってしまった。
ひとくちに自然といっても、森があればよいというわけでなく、とにかく人工物の少ない場所が自然的であると考えている。私の住む地域、少し離れた地域も含め、もともと建物の多い地域ではなかった。私が家族とそこに引っ越してきたときは広大な更地が多く(今思い返すとあれは工場の跡地だったのだろう)、高い建物といえば、地域に2棟くらい、それもせいぜい14~20階建てくらいのものしかなかった。あのときは空がとても広かった。しかし、それから数年して各地で大きな工事が始まり、巨大なショッピングモールを始め、その周辺地域に50階を優に超えるタワーマンションなるものが次々と建てられるようになった。そのときからだろうか、日本橋並みの強風が年がら年中吹くような地域になってしまった(個人的にこれを風害と呼んでいる。ある意味周辺住民の快適な生活環境を侵害しているのではないだろうか)。
ある人はそういう住空間を未来的で洒落ていて好ましく感じるのだろう。確かに、夕方~夜にかけては闇夜を背景に煌々と輝く窓明かりが無数に浮き立っているが、それは幻想的かつロマンティックな光景であることは認める。しかし、早朝はそういった高層マンションの上部に薄く靄がかかっていて、映画「ミスト」を彷彿とさせるような薄気味悪さを創出する。特に朝方というのはほとんど窓明かりがないので、灰色の巨大な物体が目前にのっぺりと現れると、自分はそこに住んでいないぶん、それに対して何一つ愛着が湧かないからか、尚更そのように感じられる。
日中は朝にも増して酷い。その地域一帯の高層マンションはほとんどが黒みがかった灰色で、ブロックを積み立てたような直方体なのでそれが連なっている光景を見ると、あまりにも無機質すぎて、水という自然にまったく合わない不自然さを醸し出す。水辺一帯は綺麗に舗装され周辺住民のランニング兼お散歩コースになっているが、よくあのような景色のもと走れるな~、となかば感心する。おそらくそこに住む人々は私とは全く感性の異なる人なのであろう。美しさを感じるのは感覚であり、それは人によって異なる相対的なものであるから仕方ないのだ、きっと。
そういう不自然に造られた空間のなかで、大量生産・大量消費の象徴たる外資系コーヒーチェーンの紙コップを片手に持って、車優先に造られただだっ広い道を歩いて、いったい幸せとはなんなのだろうか…。ジブリは一体私たちに何を訴えかけたかったのか。ナウシカのあの世界観は一体何故そうなのか、ラピュタはどうしてあのような寂しさを感じさせるのか、千と千尋の神隠しの川の神様が登場した意義は一体何なのか等々、なぜだかそういうことを思い出させる原因というのが、私が身近で目にする光景だとは、非常に不思議なものである。
そしてそういった、以前とは大きく変わってしまった地域に生活するカモやオオバンや鵜たちを眺めていると、無性に悲しくなってくる。鳩のなかに茶色のまだら模様が特徴的なキジバトを見ても、珍しいと思う一方で、悲しくなってくる。でも不思議なのは、単に悲しいだけでなく、その感情のなかにどこか懐かしさをおぼえる点である。その感情が、昔中学の自然体験で行った酪農農家や、はたまた修学旅行で行った吉野の山寺のような場所への郷愁を呼び起こしてくれる。
人の本来の生活とは何か。自然を感じたい、生き物を大切にしたい。そういう思いがまだ自分にもあるのだな、としみじみ実感する。そして同じような心を持つ人の話を聞くと、とても心に響く感じがする。冒頭に挙げた動画で、今書いてきたようなことをふと思ったので、備忘録として記してみた。
自分の住む地域について感想
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