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『小農救国論』を読んだ感想

 佐賀県玄界灘の近くで百姓を生業にしている人が書いた本。2014年第1刷発行なので、引用されているデータがやや古いものの、どれもデータに基づいた主張がなされているので、2021年現在に読んでみても日本の農業の課題を知る上ではたいへん勉強になる。著者が百姓であるからこそ、経済学の物差しでは測ることのできない農業の価値をよく伝えることができていると個人的に思っている。

農業は損得勘定ではない

 農業に損得、すなわち儲かる儲からないはあるのだろうか。近年、「儲かる農業」というタイトルの書籍が増えているが、それらは概して、脱サラして農業に参入してみようと目論む農業の素人向けのものが多い印象だ。この点につき、半世紀以上農業に従事してきた著者がスパッと断言する。「農業は儲からない」と。
 では一体なぜ儲からないのか。その原因は、農業とは何なのかという根本的な問いにある。

 農業は、人類が狩猟採集から農耕へライフスタイルを転換したときから、ずっと人類の歴史と共に続いてきた。それは人間の生存に不可欠であったためだ。当たり前の事実である。歴史的に農民が苦しんできたのは圧政や搾取、収奪のためであって、けっして農業が儲からなかったためではない。
 加えて、 農業が相手にしているのは天候や土壌などコントロールできない自然である。工業が相手にしているコントロールできる無機質ではない。工業の世界は毎年同じ数量の製品をつくることができるから、合理性や効率性を追求することで、利益を増やすことができる。しかし農業は毎年同じ天候ということはあり得ない 。農家が得ているのは利益ではなく、農作物に対する対価である。したがって農業の役割をもう一度考え直した結果、そこに損得という概念が存在しないということがわかる。

 今日どうして農家が減少しているのかという問題の核心は、現在その対価(農作物と引き換えに得る対価)があまりにも低すぎるということだ。よって、儲かる儲からないという基準で農業問題を考えることは、農業に従事する当事者があたかも儲ける才がない=無能であるからだという問題のすり替えにほかならない。
 以上から、農業の役割は人の生を維持するための作物を供給することであり、作物の対価を得て農家は生活している。したがって、農業を工業の損得と同列に論じることなどできないのである。

身土不二(しんどふじ)

 著者は、食の基本として「身土不二」の大切さを説いている。身土不二とは、人間の身体「身」とそこの「土」は一体「不二」であるから、人は住む土地でとれた旬のものを正しく食すべきである、とする考え方である。
 
 そもそも人類はその土地でとれるものを食べてきた。たとえば、ナイル川中流の農村では、家庭菜園のような小さな区画での灌漑農業が営まれてきた。冷涼な気候のヨーロッパでは畑作が営まれてきた。しかし畑作は連作障害がつきものである。同じ畑に小麦やジャガイモを何百年と作り続けることができないことから、中世の頃に村中の畑を三等分して小麦、牧畜、ジャガイモなどをつくり、あるいは一区画を休耕地にしてこれを順に繰り返す農法、すなわち三圃性がはじまった。したがって、日本のような主食、副食の概念はないという。ほかにも様々な地域ではそれぞれの地域にあった農業あるいは牧畜が連綿と営まれてきた。
 
 このように、気候・風土によって農業の形態はさまざまであり、人々はそこの農業が産出するものを食べて生きてきたし、今も生きている。 農業のかたちが食生活を規定するのである。

 日本のように戦後のたった70年近くで食生活が変わってしまうと、当然のごとく、従来続いてきた農業も衰退する。農政は近年、日本の農業に競争力をもたせて輸出を増やそうとしているが、そうなるとどうなるか。耕作地はあるのにそこで作られているものはほとんど国民のためではない。よって自給率が低下し、ますます輸入に依存することになる。影響は日本だけではない。たとえば日本の農産物を中国の富裕層向けに輸出すると、それまでその層向けの生産を担っていた中国の農民が困窮することになる。
 中国も日本も、世界と比較して経済的に豊かであるはずなのに、世界屈指の輸入大国である。日本の農産物、たとえば栗や落花生など枚挙にいとまがないが、それらの原産国は中国が多い。中国も中国でまことに皮肉であるが…、しかし今年のニュースで、中国政府が蕎麦農家に対し、他の作物への転作を促す政策を始めたそうだ。それにより日本の蕎麦業界は値上げせざるを得なくなる。それは蕎麦をほとんど中国からの輸入に頼っていたからだ。もともと日本の蕎麦の自給率は9割を超えていたが、戦後徐々に減っていった。蕎麦はまさに日本の食文化であり、自国で食べるものは自国で賄っていかないと、このように海外の状況に振り回されることになってしまうのかもしれない。

 それだけでなく、農業は生業であり、人間の生存に不可欠であり、文化やコミュニティの担い手である。輸入に頼れば、生業にしていた百姓を困窮させ、国民の生存に不可欠な安心安全な食物を確保することができなくなり、長い時間をかけて形成されてきた農村文化、私たちの起源となる故郷、そして段々畑と農村という懐かしい風景を失うことになる。個人的にこの本を読んですごく胸に刺さった著者の言葉が、食糧は輸入できても風景は輸入できない、というものだ。
 ほかにも、日本人が返る場所は結局、日本しかない、という言葉。これは、戦後日本人が満州から引き揚げてきたときに、ほとんどの人が伝手を頼って農村に身を寄せて飢えを凌ぎ、また都会の人々も、頭を下げてまでして農村から食糧を調達したそうだが、その当時と来るべき未来を示唆するかたちで、戒めのように著者が本文中に何度も述べていた言葉だ。



「それぞれの国や地域で歴史的にそれぞれの『身土不二』が実践されてきたからこそ食は文化であり、風土に合った郷土食や伝統食が存在するわけである。つまり、食と『農』『健康』『環境』は一繋がりになった一体のものであり、これらを別々に守ろうとしても守れない。そして人の命もまたその循環の中にある。すなわち『身土不二』となるわけだ。」(212頁)


終わりに

 百姓にとって、今年も来年もそして再来年も同じように災害なく作物を収穫できることを「安定」というが、経済学ではそれを「停滞」という。
 本文中で著者が、平行線上にある農業と経済学の現状に対する歯痒さからか、幾度も述べていた言葉だが、秀逸な表現だと思う。自然は循環であり、自然界に働きかけて作物をつくる農業も循環である。毎年破天荒であれば収穫量が安定せず、今年も昨年と同じように穏やかな天候であれば安定であり、それを願うのは人として自然なことなはずだ。一百姓からしてみれば、なぜ成長が必要なのかが分からないというのも頷ける。
 農業は農業、工業は工業、商業は商業というように、それぞれがお互いの産業の性質を理解して、ある産業が他の産業に必要以上に介入せずに尊重しあえるというのが一番良いのではないかと私は考える。儲かる儲からないは、誰かが得をして、誰かが損を被るということだ。貿易だったら、一方は黒字になり、他方は赤字になる。日本の製造業は、「 Japan as No.1」は、第一次産業を犠牲にすることでその地位を獲得した。マクロでは今述べたことを見つめ直すこと、ミクロでは消費者たる一人ひとりが食について考え直すことで、日本の農業の行く末を考えることができるのかもしれない。

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作成者:

モモンガ日記編集者。 担当は、法律、政治、経済、その他

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