私は先週からずっと陰鬱な気分で過ごしながら考えていたことがある。
なんだか今の社会、生きにくいなあ…と。
何故生きにくいのだろうか。
私たちは高校を卒業したら、あるいは大学や大学院を卒業したら、働かなくてはならない。そのために就職活動をしなければならない。企業に対し、いかに自分という人間が有用で価値があるのかアピールしなければならない。
ここでふと思う。…どうしてただ生きているだけではだめなのか。どうして有用で価値のある人間でないとだめなのか。
確かに、学生が今日生活することができるのはこの世の中で誰かが一生懸命働いてくれているおかげだ。この世の中、何もしなければお金は入ってこないから、日々衣食住に困らずに生活できているということは、貴方の親御さんだったり親戚の人だったり、先生だったり行政の職員さんだったり飲食店のアルバイトさんだったりが働いてくれているおかげなのだ。ゲームができるのだって、そのゲームを開発しているクリエイターさんがいて、それを流通させ販売している店員さんがいるおかげなのだ。
私たちはこの社会を構成する自分以外の他の誰かが働くことによってその便益を享受することができる。特に学生にとってはそうだ。社会人になり働くようになれば、自分も働き、誰かの便益を提供することになる、そして自分も便益を享受し、そうやって社会を循環させる一構成員となる。…それが働くということだ。
だけど、その働くといういわゆる社会参加までの道程が非常に長いし難解だしハードルが高いようにも感じてしまう。これが…生きにくさの原因なのではないだろうか。
どうして有用性があることを示さないと就職できないのだろうか。私たちは小さい頃から、良い大学に行き良い企業に就職できれば将来安泰して過ごせるという教えを、親や教師らから受けて育ってきた。
でも、良い大学に行くことによって必ずしも自分が幸せになるとは限らないのではないか。まず大学に入る前、中学高校の時代から、各自勉強あるいは勉強とは別に熱中する事柄ができるものだ。
勉強だったらたとえば数学や物理、英語その他言語がそうだ。純粋に学んでいて楽しい、いろいろな言語を知るのが楽しい、などなど。
勉強以外ならたとえば、プロのスポーツ選手になろうかなとか、絵を描くのが好きとか、文章を書くのが好き、楽器を演奏しているときが一番幸せとか、ゲーム最高!楽しいなどなど。
一人ひとり、自分が何をしているときが一番楽しい、幸せというのは千差万別、多種多様である。
しかし、それらの楽しみは大学受験という一つの目標によって突如失われる。芸術系の大学あるいは専門学校に進みたいと主張しても、典型的な親は、将来不安定だからやめなさいと頭ごなしに(あるいはやんわりと)否定し、経済学部とか法学部とかとにかく「潰しのきく」学部に進学するよう勧めてくる。潰しのきくとは、いわゆる就職する際に最も無難な、とか就職するのに有利な、といった意味合いであろう。
法律も経済も本来は就職のためにある学問ではない。研究する対象であるし、一般の人々にとっては生きていくうえで非常に役に立つ学問である。民主主義社会においては、投票する際に各政党・候補者の政策の是非を判断することになるが、その判断指標になるのが法律や経済の知識なのだ。
それを理解して大学を卒業する人はいったいどれだけいるのだろうか。もちろん、大学にはその他理系や芸術系の学部、人文学系の学部もあるが、今は就職に有利といわれている学部について言及したいと思う。
就職に有利だからという理由だけで、その学問を学ぶ。もちろん中には本当に興味関心があって、学生時代一生懸命学ぶ人もいることだろう。だが、大学3年にもなると、学問よりも自分の就職活動のことばかりが心配になってしまう。何を学んできたか、ではなくて、大学で何を頑張ったかとか、英語のスコアがどれくらいだとか、どれくらい資格をもっているか、といったいわゆるその人間がどれだけ有用であるか、会社にとって他の学生よりも価値のある存在なのか、という問題ばかり考えるようになってしまう。
どうして純粋に働くことができないのだろう。ゲームを開発したいと思っても、自分の有用性をアピールしてからでないと働く場所を得られないし、有用であることをいち早く示す指標として大学(あるいは専門学校)がある。
それなら雇われるんじゃなくてフリーランスで働くぞ!と思っても、フリーランスの地位は正社員の地位と比較して弱い。誰にも守ってもらえないのだ(国は社会保障という観点では、フリーランスや個人事業主に対してとても冷たい)。
今の世の中、お金を得るために働くのだろうか。自分で生活するなら、少なくとも最低限の食を確保しようとするならば、家庭菜園をすることだってできるはずだ、究極的には。
自分の願望を達成するために(たとえば食事をつくるのが好きだからその願望を満たすために)働くのだろうか。それとも社会の役に立ちたい、そういう社会的願望を達成するために働くのだろうか。
仮にそうだとして、期待したのとはあまりにも少ない収入しか得られなかったとしたなら、それでも働きたいと思うのだろうか。
収入と幸福度は年収800万円くらいまでなら比例して増えていくようだが、それ以上になると、収入が増えても幸福度はそんなに高くならないといわれている。
とすれば、収入800万円を得られるならどんな仕事であれ幸せになれるということなのか。本当は好きでもない事務の仕事だけど年収は良い、一方本当は好きなバンドの仕事だけど年収は200万円以下…この2つの仕事の年収が仮に同じく800万円になったとしたなら、その人は果たして事務の仕事をやめてバンドの仕事へ転職するのだろうか。
でもこの社会は、価値のあるものに多くのお金が集まるようになっている。みんなが欲しいと思うものにお金が集まる。食品や電子機器、水道やガスは生活に必須でみんなが使うからお金が多く集まる。当然そこで働く人々も他の業種と比較すれば安定的にそしてそれなりに良い給料をもらうことができる。一方芸術やバンドは、それを支持する客層が限られてくる。ピンキリの業界なのだ。多く支持を集めるアーティストもいれば、零細の支持だけのアーティストもいて、後者は不安定な生活を送ることになる。
そう、どれだけ価値があるか、どれだけ有能で有用であるのかをアピールしなければならないのは、結局は世の中がそれを求めているからなのだろう。
それが生きにくさの理由でもあり、日々の便益の水準をより高めることにもつながる。
有能で技術力の高い人が、たとえば食品やゲームなどの開発に携われば、消費者としてはより美味しいご飯を食べることができるし、すごく面白いゲームをプレイすることができる。
でも、人間にはもともと能力や育った環境や時代に不平等性があるから、それらをケアする方法がもっとあればいいと思うのも事実。とにかくただ生きていたい、社会で役に立つよう頑張るのはもう疲れたという人には、そうした人々をケアする場所や制度があればいいのにと最近よく思う。ただ存在するだけでもそれを肯定してくれる場所。温かく受け入れてくれる場所。いったん休ませてくれて、ちょっとずつ、また役に立ってもいいかなと思えるようになったなら、できることからもう一度社会参加させてくれるような場所。
もしそういうところや制度があるのなら、この生きづらさもだいぶよくなると思う。