カテゴリー: 雑記

18歳のときの自分が考えていたこと (日記)~学問・生きる意味~

私は、18歳のときから「思考ノート」と呼んでいる、日記のようなものを書いています。
今回は、その一部を曝(さら)け出しましょう(笑)。
内容は、前半が学問について、後半が当時抱えていた悩みについてです。
(なお、原文ままです)
※偉そうに「学問」と言っていますが、「教科」と読み替えて頂ければ幸いです…まったく、若気の至りというものですね😅

「学問」:理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法の総称。学。
「教科」:学校教育で、児童・生徒が学習する知識や技術を系統立てて組織した一定の分野。国語・社会・算数・理科など。


9.25 Mon
学校へ行く前に、学問について考えたことを書いてみたいと思う。
自分は、高校二年生になってようやく学ぶ楽しさを見出すことができた。それはある先生との出会いがきっかけであった。現在もその先生に習っているが、やはり、良き師との出会いは重要であると思う。それによって人生が左右されるのだから。
学問についてだが、最近の自分は、学問が一体何を求めているのかを考えてしまう。高校で我々は数学や国語、地理歴史公民、理科、倫理、英語を学ぶが、それらの学問を学ぶことで、一体どのような知識が身につき、それを実生活でどのように活かせるのかということを考えてしまうのだ。今挙げた教科は、基礎的な事柄だ。たとえば、歴史の背景を知らなければ、世界を語ることはできない。また、自分はこの夏哲学者の本を読もうとしたのだが、思想というものはある時代の主流の考え方に原点を置いているものが多い。よって、世界史をまだ全て学んでいない自分にとっては、その本を読んでいても歴史が分からないのでこれと言って面白くもなく、投げてしまった。このような事は、他の教科にも当てはまると思う。
まず、数学について。これは、論理的思考をする上で大切な教科だ。我々人間は、動物であるが、理性を持った存在だ。理性の対義語は感情であるが、人間は動物であるから、いざという時は理性よりも感情の働きが勝ってしまう。これは仕方の無いことだ。だが、人間社会は理性に偏重して成り立っているから、理性の働きを活かせる論理的思考は、これからの人生を生きるうえで必要不可欠なものであるといえる。
国語についてだが、これは『世界のトップエリートが実践する集中力の鍛え方』という本から引用すると、
・認知的共感:他者の視点を理解する力
・情動的共感:他者の感情を汲み取る力
・共感的関心:相手が自分に何を求めているかを察知する力
を養う上で大切な教科だと言える。評論文は論理的思考をはかるものであるが、小説系は登場人物の心情を理解しないと問題を解けない。また、そもそも問いというのは、出題者が解く側(=自分)に何を求めているか察知する力を測るものであると思う。上記の3点は、コミュニケーションを円滑に進めるうえで、基礎的な能力といえよう。
社会系についてだが、これは国内、世界情勢を把握するうえで基礎的な学問といえる。入試では、丸暗記(東大など国立は記述だが)のスキルが求められるが、暗記は昔から自分の得意分野だ。ゲーム感覚で勉強している。
理科については、この世界を生きる私達にとっては切っても切り離せない学問であると思う。理科系を学ばずして、世界の諸問題、諸事象を語ることはできない。
英語は…そうだね、個人的に好きな教科だが、少なくともここ半世紀くらいまでは活かせる教科だと思っている。なぜ半世紀かというと、現代はグローバル化と呼ばれる社会の真っただ中であるが、最近はAI(人工知能)が目覚ましい発達を遂げており、Googleにおいて、英語を自然な日本語に変換することが可能となった。さらに、スマホなどのデバイスで通訳も可能となった。このようなことから、近い将来はわざわざ英語を学ぶ必要は無くなると考えた。だが、英語を学んでおくのは良いことだ。ある程度まで文法、そして単語を知っていれば、わざわざデバイスを使って(いちいち単語等を検索にかけてよむということ)読むという手間が省け、スラスラと読むことができるからだ。

では、自分が最近最も苦しんでいることを此処に記したいと思う。
何故生きているのだろうか?自分が存在する意義は?世界が存在する意義は何か?それとも自分の目に映る全ての事象は虚像であるのか。いや、でも手で触れて実感することができるが…。いや、実はどこか別の世界に自分の脳みそが存在して、外(部)的に信号を送られているだけではないのか?自分が今、この時代に生きているということは何かしらの目的(使命)があるはずだ。ではそれは何であろうか?それともその使命というものは自分自身で作り上げるものなのか?
…うーん、きりがないね。疑問だらけだ。この世に絶対的な真理など無いが、今まで、無数の人間が生きては死んでいった。その中には当然、このように思い悩み、そして何か打開策を打ち出してそれを本にまとめた人間も数知れなく存在する。…自分ができることは、先人達のそうした本を読むことだ。上記の問いは底知れない。考えれば考えるほど、深い沼にはまっていき、もがいても抜け出せなくなる。思考の無限ループだ。つまり、自分、そして世界の存在を疑えば疑うほど、真理?は遠のき、逆に自分の命を危険にさらしてしまうということだ。最悪、自分の存在意義を見出せなくなり、自死に追い込まれることだろう。自分が最も恐れていることは、そのような事だ。…人間はおそらく誰もが、このような危うさを抱えているのだと思う。しかし、毎日を特に何事もなく過ごせている。人々は、…なんと強い存在なのであろうか。
思考の無限ループはきりがない。それは自分も身をもって経験している。だが、恋する乙女がロマンチックなことを妄想するように、真理の理論(仮説か?)を考えるのもまた、楽しいことであると言える。だが、考え事をするうえで、自分には必ず気をつけている点が一つある。それは、いかなる場合であれ、己(おのれ)の存在を肯定している、ということだ。自分の存在(≒生きる意味)を肯定するかしないかで、これからの人生が大きく左右されると思っている。(ただ、自分がこのように深く考え出したのは17才(高3の初期)であったので、まだそれから1年も経っていない。しかし、直観的にそう感じる)
青年期については、以前から暗いイメージを持っていたが、(というのも保健の教科書のイラストでは、青年期のところだけ影がさしていたからだ)本当にその通りであった。暗い、というよりはむしろ、悩ましい感じだろうか。よく、多くの大人たちが、青年期(学生時代)にもう一度戻りたいと言っているが、自分もいつかはそのように思うのだろうか。いつか、この時を振り返ってみて、ああ、あの時にこうしていれば良かったなあ、などと後悔することがあるのだろうか。未来は…分からないね。
(以下まだまだ続きますが、ここで終了とします。)

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作成者:

モモンガ日記編集者。 担当は、法律、政治、経済、その他

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