カテゴリー: 雑記

新型コロナウイルスの感染拡大をうけて政治について再考してみた

この度は、1月末からはじまり、現在なお続いている新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックを受けて、一市民が抱いた感想を率直に述べさせていただきました。
こういう価値観・意見があるのだな~という心持ちで読んで頂ければ幸いです。


まず最初に、私の思想・立場から(日本をより良くしたいと思う理由なので書きます)。
私は日本の文化を愛しています。ジブリ作品を愛しています。それは、ジブリから日本独自の価値観を感じられるからです。具体的には、あらゆる物に神が宿っているとする、八百万の神という考え方、そこから派生する、神社などのお祀りする仏閣等です。あらゆる物に神が宿っているとすることで、物や自然を大切にする…そういう精神を私は大切にしたいと思っています。このようなことは、個人レベルの信条に関することなので、これを批判するような意見(短絡的に右翼や保守などとレッテル貼りするなど)はそもそも議論の前提を欠いているので慎んで頂きましょう。

次に、私がなぜ以下の意見を述べるのかについて。
それは、今回のコロナウイルス感染症のパンデミックという事態を受けて、イベント中止や学校の休校はやむを得ない、仕方なかった、と思うだけで終わって欲しくないからです。今後、経済的損失は計りしれないでしょう。しかしそれ以上に、私たちの生活が制約されている現状、それも政府の判断ミスで起こったというこの現状について、もっと考えて頂きたいのです。国民の安心安全な日常を保障することができない政府を、このまま看過しておいてよいのでしょうか。政府とはこんなものだ、とのんびり構えていて大丈夫なのでしょうか。私たちの先代が勝ち取ってきた民主制という政治体制…この意義や原点に立ち返って、現状を見つめ直す転換期にきているのではないか、と私は考えております。これを前提に、お読みいただければ幸いです。
 
さて、国内ではコロナウイルス感染症が流行しています。まさに、パンデミックといえましょう。政府(総理大臣)は26日に、イベントなど人が多く集まる活動を2週間自粛するよう要請しました。それを受けて、私の身近、スポーツセンターや習い事の中国舞踊も、今後2週間は休業という決定を下すことになりました。…私にとっては、両者は趣味に留まらず、日々の楽しみ・生きがいになっていましたから、それらを突如奪われて、非常に残念に感じたとともに、心の底から怒りの感情がこみ上げてきました。私だけの問題ではありません。コンサートやスポーツ観戦など、様々なイベントを楽しみにしていた方々にとっても、楽しみを奪われてしまったことでしょう。まして、イベント主催者はそのイベントの開催までに、どれほどの労力・費用をかけてきたでしょうか…。このように、感染症の流行は、個人ではどうすることもできません。もちろん、普段から手洗いうがい、健康に気をつける、エチケット等マナーを守るなど、個人でどうにかすることもできます。しかし、パンデミックを前にすれば、個人はもはや無力となるわけです。パンデミックを理由にイベントや学校・施設の休校・休業は、個人の意思に関係なくやむを得ない事態です。…しかし、その個人ではどうすることもできない事柄に対処するのが、政府の役割なのではないでしょうか?事が起こる前に、政府だけが有する強制力を以てして、このような事態を防ぐことができたはずです。したがって、今回の政府の対処の仕方、具体的には、中国で流行していることが判明した時点で強固な水際対策をしなかったということについては、怒りを通り越して憤りを感じております。

2003年にSARSが中国で流行ったときは、日本国内で今回以上に感染拡大するということはありませんでした。つまり、しっかり水際対策をすることは可能ということなのです。
これができなくなってしまった背景には、日本という国が、経済的に観光客の国内消費に頼るという、インバウンド偏重型になってきたという側面があるのでしょう。観光客の増減によって、経済が左右されてしまうという構造は、たいへん危ういものなのではないでしょうか。まず、国民あってこその経済です。経済利益と国民の健康を比較衡量する時点で、その国は、政府は、国民の代表に値しない、失格である、と私は思います。なので、現政権は断罪されてしかるべき、というのが私的見解でございます。
どうしてこのような構造になってしまったのか。それは、私たちが政府のやっていることを監視しなくなった、すなわち私たちの怠慢に起因する、というのが私の考えです。

若者の投票率の低さ(30%程度)が顕著にそれを物語っています。投票に行っていない人たち、つまりサイレント・マジョリティが多数を占めているのが今の日本なのです。「死人に口なし」といいますが、サイレント・マジョリティも同じです。政治家や政府は、それをいいことに、自分やその支持者・支持組織の利益につながるような政策を次々と行ってきましたし、今もきっとそうでしょう。
政治とは、社会の限られた資源(100兆円の予算)を、国民から選ばれた議員が組織する国会の決定によって、分配するという営みです。予算だけじゃありません、消費税率を決める、法人税率を決める、などといった法律についても、国会で決定されます。
民主主義は多数決原理ですが、そもそもその多数派というのが、選挙で投票した人々を母集団としたうえでの多数派なのです。そこにサイレント・マジョリティは含まれていないですし、政治家も彼らの意見を積極的に聞こうとはしません。何故なら、政治家にとっては、再選こそが重要事項ですからね。

このようなことをふまえて。
民主主義は連帯責任です。私一人が考えて投票したところで、他の人々が投票に行かなければ何にも変わらないどころか、多数派のやり方に従わなくてはなりません。たとえそれが、私を含む若者の不利益になったとしても。
特に、国民年金の納める額や消費税、さらに大学費は、今のお年寄りの方々が若者だったときと比べて、今のほうが圧倒的に高く、それに加えて、2、30年前の初任給と今の初任給が変わっていないという事実も相まって、私たちは今後、たいへん苦しい思いをして人生を歩んでいくことになるでしょう。
だからといって、年金払いたくない!などとは思いません。それは、私は社会扶助の考え方を肯定していますし、お年寄りといいましても、近年貧困で苦しい生活を余儀なくされている方々が増えている事実を周知しているからです。
じゃあどうすればいいの?という話になるわけですが、そもそも私たちの国家予算についてのイメージや国債=国の借金という考え方が、誤りであるということに気がつくことが、今日本が抱えている問題の打開策につながると考えています。(昨年末から私はMMT(現代貨幣理論)というのを知り、経済学者のお話をYouTubeで見る等勉強中です)

日本では、政治に関する話題はタブーとされ、忌み避けられる風習があります。一体、このような風習のもとで、どうやって人々の政治リテラシーが身に付くといえましょうか?民主主義体制でより良い政治へ繋げようとするなら、対立しあう者同士が積極的に話しあって、双方が合意するような意見へ発展させる(止揚、アウフヘーベン)という営みが必要不可欠です。互いに異なる意見だから、それはそれでOK、不介入というのは、議論ないし決断の先延ばしであって、相手の尊重でもなんでもありません。ただの無責任です。思考停止です。
Twitter上では政治的議論が活発ですが、私としては、普段の生活、人間関係においてもそのようになることを望んでいます。今はまだ難しくとも、私より後の世代が、気兼ねなく議論できる世の中になるように、私たちが今後、時間はかかるかもしれませんが、努力して、何としてでも変えていくべきです。お金をたくさん稼ぐこと(経済活動)だけに専念する、楽しいことだけやって生きていく、などといった行動・欲求が実現する世界は桃源郷だけであって、現実世界にはどこにもそういう場所は存在しません。
私たちは生きていれば必ず政治に関与しているのです。そのことをふまえて、自ら主体的に情報を集め、自分の考え・意見をもつよう努力していきましょう。



出典:総務省HP
出典:総務省HP

上図出典の総務省HPはこちら

観光客の増加についてはこちら。インバウンド統計リポート(日本経済新聞)

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作成者:

モモンガ日記編集者。 担当は、法律、政治、経済、その他

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